2013年5月3日金曜日

『勝ち組み』と『負け組』(ブラジル)

Masao Kinoshita私が海外の人生を目指したのは大叔父の影響が大きい。大叔父はブラジル日系人一世であるが、私は小学校の頃、ブラジルから一時帰国した大叔父に一度だけ会っている。確か昭和54年前後だったと思う。

大叔父はブラジル日系人最初の弁護士であり、サンパウロの日本人学校創立者及び初代校長だった。大叔父の一時帰国は『日系人社会への貢献』として昭和天皇から勲章を授与するためと記憶している。その際、60年以上の年月を経て、大叔父と祖父が兄弟の再会をしたのを目のあたりにした。その時には子供ながらに感じるものがあった。

そして私は大叔父の影響もあり、物心ついた頃には将来、海外に住むことを決心していたような気がする。中学生の頃だったろうか。山崎豊子原作『二つの祖国』をモデルにした『NHK大河ドラマ・山河燃ゆ』を見た時には、日米の祖国の間で身を引き裂かれながら、アイデンティティを探求する日系人の姿に強く心を打たれた。故郷を想いながら生きていく姿に、大叔父の姿や、何故か将来の自分の姿を重ね合わせた。それから30年程の月日が経つが、現在、実際にそのような海外人生を送っているから不思議なものである。

実はメキシコ留学中の21歳の時に、大叔父に再会する為にブラジルに訪問した事がある。メキシコからアメリカ経由コロンビアに行き、エクアドル、ペルー、チリ、アルゼンチン、ウルグアイをバスで回り、最終地のブラジルに向かった。残念ながら、大叔父は私がブラジルに着く直前に他界し、お墓参りによる再会という悲しい結果となった。大叔父には子供がいなかったが、そこでは迎えてくれた奥さん側の親戚には大変お世話になった。しばらく家に泊めさせてもらった日系2世の叔父さんと叔母さんのご家族には大変感謝している。

その完璧な日本語とポルトガル語を話す日系2世の叔父さんが話していくれた内容が印象深かった。ブラジルは差別が少ないことが日系人社会を救ったという。確かに、日系人はブラジル社会に驚くほど溶け込んでいた。実際に日系3世の世代になり、ブラジル人と結婚する人も多く混血が進んでいた。ちなみに、その叔父さんと叔母さんは既に他界している。

さて、その日系1世の大叔父であるが、1902年に山口県に生まれ、10代の時にブラジルに移民して以来、大変苦労したようだ。コーヒー園やサトウキビ園、そして牧場等で労働する日々に明け暮れたが、学校に通いたくて2度ほど入植地から家出を試みたという。しかし、親戚の叔父に見つかり、連れ戻されたらしい。結局、二十歳の時に初めて入植地からサンパウロに移り、働きながら、サンパウロ大学の夜学に通い、弁護士の資格を得たというから、まさに信念の人であったのだろう。

そのブラジルの日系人社会であるが、戦中から戦後にかけて、困難な時代があったようだ。戦後は『勝組み・負け組』といわれ、日本が敗戦した後も、『負け』を認めず、『日本の戦勝』を主張した『勝ち組』と、『敗戦』を事実として受け入れる『負け組』の間で抗争が起こったという。実は大叔父は日本の敗戦を認める運動を開始した張本人であったようだ。叔父と運動を行った『負け組』の多くが『勝ち組』に殺害やリンチを受けたという。叔父は暗殺の標的のNo.1であったらしいが、苦学した仲間達に助けられ難を逃れたという。ブラジル日系人社会における悲しい歴史である。

先日、インターネットを見ていたら、生前の大叔父のインタビューを偶然発見した。20年以上前にブラジルに訪問した時には再会できなかったが、今になって、生前の大叔父との再会の夢がかなった。まさに奇跡としか思えない。小学生の時に大叔父と握手した感覚を今でも覚えている。

【参考資料】
ディスカバーニッケイ:http://www.discovernikkei.org/ja/interviews/profiles/81/